己事究明
おはようございます。
先週末、広島会計ビジネス専門学院で講演をさせて頂きました。
講演といっても、メインは演奏で大変大きな講堂に一人ポツンとステージの高いところから、
スーツを着た錚々たる講師方々を前に独奏講演するというもので、なかなかレアな体験でした。
昔は、この独奏というものがとても苦手でした。
今でも、1時間演って、と言われると辛いかもしれません。(ちなみに、カラオケ使うとかは論外です。🤣)
でも、例えば海外とかで楽器を持ってると、どんなのやるの?とか言われます。
そういう時に、自分の演ってることはこういう感じ、というのが自分一人の演奏で提示できるか出来ないかは、大きく違う。
誰かが一緒にいれば、楽しくなったり、また違う世界を作れたり、拡がりを持たせたり、という様々な事が出来るとおもいます。でも、わたしが出す音楽はわたしだけのもの。
それを説明するのに、誰かを何かを外から補わないと表現できない、というのは違うなぁ、と感じます。
わたしは、最近この、
自分から搾り出すものと、外部から補うもの、
ということを結構音楽だけに留まらず日常的に色んなことに感じ考えていて。
今は手軽ですからね。
なんでも分からないことはググれば出てくる。
それでも分からないことは、周りの人に聞けば誰かが教えてくれて、
足りないモノはいくらでもコンビニ、百均があって、体にも栄養が足りなければサプリメントで補って、はたまた日々の食事もサプリメント、少しでも不安になったら手軽にジムや病院へ行けばたくさんのマシーンに処方箋。仕事やプライベートも必要事項をメールで送信、各所勝手に送られてくる様々な情報、溢れるお得情報、譜面も電子化。
それら自体は、別に悪いことじゃ無い。でも、ここぞという大事な取捨選択時にわたしは、それらを安易に1番に選びたくないなぁ。と思います。
わたしの中に何にも残らないから。
自ら生み出す苦しみや、辛さや、恐怖、畏怖、恥じらいや試行錯誤、疑問、喜びや、安堵や、幸せや不安や、決意、それにかける熱意や時間もなく、安易に手に入れるものは、わたしの中ですぐ忘れ去られて輝きを失って、あっても無くてもどちらでも良いような事になる。
そうしてさらに怖いことは、それらによって本当に大事なことも埋もれる事があるという点です。
必要なこと、というのは、不必要なことをちゃんと理解していないとわからない。
外部から補う、というのも自分で色々やった上でそれでもうまくいかなかったとき、誰かに助けを求めるというのは素晴らしいことだと思ってます。
でもそれを行わず何にも考えず、想像せず、判断力も自制心も持たず、ただ易いものを求めるのは。
そう考えるにつけ、
わたしには、音楽と山と大切な人々が在って良かったなぁ。と思う朝。
自分の時間をかけて自分を使って慈しみを保って進む。というのはとても楽しい。そんなことを日々鍛錬と共に実践したいと思っています。
己事究明